大和郡山城址 かんたん歴史

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あの桜で有名な「大和郡山城」って一体誰のお城?という方のために

そのかんたん歴史をまとめてみました。

まずは歴史の“概略”ではありますが、 この後シリーズを連載してアップ予定ですので

目次のつもりで見ていただくと嬉しいです ^^。

大和郡山城のカンタン歴史 


⚫︎10世紀後半(平安時代)に 郡山衆こおりやましゅうと呼ばれる武士団の館が点在しており、
雁陣之城がんじんのじょう」を築いたのが始まりとされている。
※郡山衆=郡山の土豪どごうたち。土豪=その土地の小豪族。荘園や農園を基盤とする有力農民が侍身分を獲得した武士。地侍じざむらいともいう。
※雁陣之城=国衆の居館型城郭。当初は盛り土と柵を巡らせた環濠集落のようなもので、郡山衆が城主を務めていました。

⚫︎1580年 織田信長の支援で大和統一の偉業を成し遂げた筒井順慶つついじゅんけいが筒井城から郡山城に移る。
(筒井城が低地にあり、水害の被害が出やすかったためといわれている)
⚫︎1585年 筒井家は 豊富秀吉から「転封てんぽう」を命じられ 郡山を出る。
※転封=幕府が大名たちの領地を強制的に移動させること。大名への監視と制裁、領地や力のバランスの為。大名たちは費用面と人脈面で負担が膨大だった。国替・移封ともいう。

⚫︎1585年 豊臣秀吉は 豊臣政権の発展を手堅くするために 弟 秀長ひでなが(当時46才)を入城させた。
秀長は紀伊・和泉・大和の三カ国100万石を領有して入城し、畿内統治の拠点として 城郭城下町を 大規模に整備。
     
※ 奈良の商人・職人等を呼び寄せ、城下町「箱本はこもと十三町を作り、
商人たち自ら町の自治運営を行う「箱本制度」を導入し、城下町を大いに繁栄✨させた。

みやこ

あの緻密な城下町はこの時に作られたのね!すごい!

⚫︎1591年 秀長(52才)が病死、 甥の秀保ひでやす←後に「無双の悪人」と呼ばれた人)が後を継ぐ。
⚫︎1595年 秀保(17才)の死後 秀長の家系は途絶える。

⚫︎1595年〜 
城主となった増田長盛ながもりが 
秋篠川を付け替えたり、ため池を使って
約5.5kmの外堀を作り、完成させた。

みやこ

すごい!川の一部を切り取って外堀にして、川は別の流れに作り変えたんだ!
こんな大事業をなんのために?。

外堀を作った目的は「縄張りを定めるため」だったとされています。

⚫︎1600年 増田長盛は関ヶ原の戦で 豊臣傘下の西軍に味方し 大阪を守るが、敗北
郡山城は 徳川方に接収せっしゅうされて 城は取り壊しとなり、建物の全ては伏見城に移された。
※接収=国家などが所有物を取り上げること。

⚫︎その後 水野・松平・本多と 譜代大名が城主になる。

⚫︎1724年 甲斐国甲府藩かいこくこうふはん藩主をしていた柳澤吉里やなぎさわよしさとが 突然 幕府から「転封てんぽう」の命を受け😳 大和国やまとこく郡山藩主になる。ここから約145年 柳澤家による統治が6代続いた。

みやこ

どうやら 郡山城を語るには
一つには城郭城下町大規模整備をした秀長の時代
もう一つには150年近く続いた柳澤一族の時代が外せないという感じね。

まとめ

遠く1000年ほど前からこれまでの間、

この大和郡山の地に 様々な存在意義をもたらした大和郡山城。

どうやら 多くのドラマが繰り広げられていたようだ、ということがわかりますね。

じっくり見ていくことで その魅力により興味が湧いてきそうですね。

これ以降の記事をお楽しみに!(^0^)/

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